山本智之の「海の生きもの便り」

2026年5月 Writer: Tomoyuki Yamamoto

第60話 「海のカタツムリ」に迫る危機

ミジンウキマイマイの写真

ミジンウキマイマイ=山本智之撮影

■翼を羽ばたかせて泳ぐ「巻貝」

 流氷が押し寄せる冬のオホーツク海。マイナス1℃の海中を、元気に泳ぎ回っている巻貝を見つけました。浮遊性の巻貝「ミジンウキマイマイ」(Limacina helicina)。その姿から、「海のカタツムリ」とも呼ばれます。

 貝殻は透き通っていて、直径は5mmほど。「翼足」(よくそく)という器官をパタパタと羽ばたかせて泳いでいます。

ミジンウキマイマイの貝殻は透き通っている状態の写真

ミジンウキマイマイの貝殻は透き通っている=山本智之撮影

■日本の研究者が異変を報告

 翼足を打ち振って懸命に海中を泳ぐミジンウキマイマイ。その姿を実際に目にして、とてもかわいらしい生き物だと感じました。ただ近年、このミジンウキマイマイに異変が起きていることが、日本の研究者によって報告されています。

 北極海で調査を行った海洋研究開発機構(JAMSTEC)の木元克典・主任研究員によると、ミジンウキマイマイの殻が溶けて薄くなったり、穴があいたりする異変が確認されたといいます。「海の酸性化」が、その原因として指摘されています。

北極海で採集されたミジンウキマイマイのX線CT画像

北極海のミジンウキマイマイの貝殻。X線CT装置で詳しく調べたところ、殻が溶け、複数の穴(赤い矢印の先)があいていることが確認された=海洋研究開発機構の木元克典さん提供

■「海の酸性化」の脅威

 「海の酸性化」は、海水の水素イオン濃度指数(pH)が低下する現象です。私たち人類が化石燃料の燃焼などによって大量の二酸化炭素を大気中に放出すると、大気から海洋へと溶け込む二酸化炭素の量も増えます。その結果、海水の化学的なバランスが崩れ、酸性化が進行してしまいます。

 酸性化は、海の生態系を大きく変えてしまう可能性がある現象です。その中でも、特に深刻な影響を受けるのは、貝類やサンゴなどです。これらの生物は、海の酸性化が進むにつれて、炭酸カルシウムの殻や骨格を作りにくくなってしまうためです。

 pHの値は、中性の場合は「7」。数字が大きくなるとアルカリ性、小さくなると酸性であることを示します。海水はもともと「弱アルカリ性」で、世界の海洋の表面海水のpHは「8」を少し超えた値となっています。

 下の図は、世界の海洋(表層)で酸性化がどのように進むのかを予測したグラフです。私たち人類が今後、大気中にどのくらいの二酸化炭素を排出するかというシナリオによって、今世紀末の海水のpHは大きく変わることが示されています。

海洋酸性化の将来予測のグラフ

■酸性化はもう始まっている

 「海の酸性化」は、未来のできごとではなく、もう始まっています。世界中の海洋で酸性化が進行し、海水のpHが低下しつつあることが、日本の気象庁を含む各国の研究機関の調査によって確認されています。

 ほかの貝類と同様に、ミジンウキマイマイの貝殻も炭酸カルシウムでできています。そして、いままさに進みつつある海の酸性化の影響で、ミジンウキマイマイの殻にダメージが発生したと考えられます。

 ミジンウキマイマイの殻は非常に薄く、海の酸性化に対して脆弱なのです。殻に穴が空いてしまった個体は、細菌感染を起こすなどして生残率が低下する恐れがあります。

 ミジンウキマイマイの殻の異変が見つかったのは、日本の海ではなく、より寒冷な北極海です。二酸化炭素は、冷たい海水により溶け込みやすいという性質があり、これが北極海で海の酸性化がいち早く進みつつある要因の一つと考えられています。

■他の生物への影響も

 ミジンウキマイマイは、サケ類などの魚たちの重要なエサになるなど、冷たい北の海で、食物連鎖を支える重要な役割を果たしています。

 「流氷の天使・クリオネ」として有名な「ハダカカメガイ」(Clione elegantissima)の場合、ミジンウキマイマイは生きていく上で欠かせない存在です。

ハダカカメガイの写真

ハダカカメガイ=山本智之撮影

 ミジンウキマイマイを見つけると、ハダカカメガイは頭部から6本の触手を出し、捕まえてその肉を食べます。ハダカカメガイは、ミジンウキマイマイだけを食べて暮らすように進化した生物です。

 このため、海の酸性化によって将来、ミジンウキマイマイが姿を消してしまえば、ハダカカメガイもまた絶滅する恐れがあると心配されているのです。

新刊のご案内

■『ふしぎ?なるほど! 海の生き物図鑑2』 山本智之 著

2026年1月刊行(海文堂出版)。A5判オールカラー96ページ、2,420円(税込)
お申し込みは→ こちら

『ふしぎ?なるほど!海の生き物図鑑2』の書籍の写真

 ダイバーであり科学ジャーナリストでもある著者のウェブ連載の書籍化第2弾。世界最大のタコ、最小のイカ、真珠をつくる貝、リュウグウノツカイとの遭遇、巨大マンボウ伝説、ホヤやカイメンの正体、変装するカニたち、ウミウシに擬態するゴカイなど、12のトピックを、研究者への取材にもとづいて、魅力的な写真と共にお届けします。

■筆者プロフィール

科学ジャーナリストの山本智之氏

山本智之(やまもと・ともゆき)
1966年生まれ。科学ジャーナリスト。東京学芸大学大学院修士課程修了。1992年朝日新聞社入社。環境省担当、宇宙、ロボット工学、医療などの取材分野を経験。水産庁の漁業調査船「開洋丸」に乗船し、南極海で潜水取材を実施。南米ガラパゴス諸島のルポを行うなど「海洋」をテーマに取材を続けている。2025年2月には、海上保安庁の巡視船「そうや」の海洋観測に同行した。朝日新聞科学医療部次長、朝日学生新聞社編集委員などを歴任。著書に『温暖化で日本の海に何が起こるのか』(講談社ブルーバックス)、『ふしぎ?なるほど!海の生き物図鑑』(海文堂)ほか。X(ツイッター)は@yamamoto92